Portrait of JAPAN WINE

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道を究め、道を拓くただし、あくまでも自然体で

駒園ヴィンヤード

取締役社長 近藤 修通さん

ある著名な産業界のトップとワインの席をともにしたことがある。そのトップは、ある国のワイナリーに投資をしていて、そのアイテムを味わいながら歓談するという会だった。なぜ投資をしたのか? ワイン好きであったり、地域貢献であったりとその理由はいろいろあるけれど、中でももっとも自身の心を突き動かしたのは「わからないものに挑戦する喜び」だという。生業として精密機械を扱い、品質管理、安全性に心を砕く日々。それはある種物質的なものの追求。でもワインは真逆。科学、化学、機械工学に、経営、ビジネス。こうした合理的で生産的な仕事に関わり続けると、反対のことをしたくなる。それは逃げることではなく新たな挑戦として人生を豊かにしてくれる。ワイン造りにももちろん、合理的で、生産的で、化学・科学的な要素は必要だけれども、それ以上にワインが持つ、自然の恵み、人間にはコントロールできない神秘的ななにかに強く惹かれる。人生のなにかの渇望。それがワイン造りにあって、人生に必要とされる本質的な物が見えてくるような気がする。それが、その人の思いだった。

果たして同じ理由だったかはわからないが、駒園ヴィンヤードの近藤さんは、元々は自動車業界のエンジニア。モータースポーツともかかわった時期があった。醸造施設を案内している間にも、筆者とはモータースポーツ談議に花が咲く。筆者の「あのころはCカーで。マツダのロータリーエンジン。初めて富士スピードウェイでレースを見たとき、あの音はすごかったです。感動しました」から始まり、「レナウン・チャージのカラーリングで…ルマン24時間を制して」「寺田陽次郎選手やジョニー・ハーバードの時代」「それから少し前のF3では、星野、中嶋、松本、関谷、ジェフ・リースにまだ国光さんや長谷見さんも」「面白い時代でしたよねえ」。おそらくこの世界がお好きな方なら88年から92年ぐらいの間のモータースポーツシーンを思い出していただけるだろうが、駒園ワイナリーのワインを紐解こう、体感しようと同行してるスタッフにとってはまるで暗号だし、すっかり置いてきぼり。それでも意に介さず、談義は続く。それだけモータースポーツがエキサイティングな時代、そして近藤さんにとっても青春時代から働き盛りにかけて熱中し、その腕を磨き、発揮してきた時代。では近藤さんは、なぜサーキット、レーシングカーから離れ、ワイン造りを始めたのか。

経緯を記せば、少年時代、父の仕事の関係で転勤を重ねていた経験から、どこかで足をしっかりつけて生きていきたいという思いがあった。それならば経験を積み、スキルを持っていた自動車や機械系の仕事でもよかったはずだが、選んだのはそれとは真逆と言っていい、ワインの世界。別の世界を見たかったのかもしれない。少年時代、気に入ったとしてもその場所に自分の意志で居続けることはできなかった。機械を相手にする仕事では得られないやりがいもあるはず。そんな思いが重なったのだろうかと勝手に想像をめぐらせたが、近藤さんのこの一言で腹に落ちた。

「自然を相手にする仕事は、想像はできても予測ができないんですよね。それも面白いと思うんですよ」

この話が冒頭のある産業界のトップの話を思い出したきっかけだった。モータースポーツの世界でも予測できない、運命のいたずらのような結果はいくらでもあるが、その可能性であり、危険性を極力誤差のないところへ、人の力で運んでいくことが醍醐味であり、そのために意識と技術を高めていく。市販車やディーラーの技術者であればさらにリスクと向き合い、オーナーの安全性や利便性のために心を砕く。正解だけが求められる世界だ。だからこそ、真逆の世界に身を投じてみたい。近藤さんが言う。「極力自然の力に任せる」。この言葉も、おそらく自動車の世界では出ない言葉だろう。

テイスティングルームから道を挟んで徒歩1分。そこに駒園の畑はある。「極力自然の力に任せる」と言う近藤さんの言葉通りの世界がそこにはあった。おそらく元気に動き回っているだろうもぐらの穴。古い樹齢の切り株からはあらたな生命の芽吹きのような蜜が現れ、鳥のさえずりも近くに聞こえる。害獣と紙一重だが自然に任せるという意味では共犯者。さらに契約農家との関係も、モータースポーツのプロフェッショナル同士のような関係性。彼らに栽培にも収穫にも自らコントロールすることはない。この年、その場所で生まれ育ったブドウをリスペクトし、そうやって収穫まで持ってきた農家の人たちをリスペクトする。それを自分の手で生かし、作品にしていく。「いや、ズボラなだけなんですよ」と近藤さんは言う。謙遜だろうが、もしかしたら謙遜でもないかもとも思う。その性格だからこそ、心の底からこのやり方ができるのかもしれないと。屈託のない笑顔もそれを後押しするし、この言葉が改めて心にしみる。「自然を相手にする仕事は、想像はできても予測ができないんですよね。それも面白いと思うんですよ」。言葉はズボラというものでもいいけれど、言い換えれば、なるようになるからこそ面白いことってあるんじゃないか。見えてくるものがあるんじゃないか。

近藤さんのワインの中で、自分のアティチュード(姿勢)をそのまま名前にしたというの「TAO」と名付けられたシリーズがある。TAOは、中国の道教のことだが、道教を読み解くのは、とても複雑で難解なものだが、大きく要点をいえば、いや、もっと乱暴にいえば「なるようなる。そこに真理の道がある」ということだ。しかし、TAOを味わってみればただ野放図にありのままやっちゃったというようなものではない。なるようになるためにどうするか?「なるようになるためにはその道をどう整えるか、どのような理(ことわり)があるのか」が大切だ。なるようになる。そのためにやるべきことをする。自分がすべきことを。

テイスティングルームでは、この時、たまたま居合わせた旅行中だという2人のカナダ人男性に出会った。2人はTAOのいくつかを味わって、口を揃えていう。「こんなに可愛らしくて、でも深いワインは初めてですよ」。たぶん、その可愛らしさの裏には、鳥のさえずりや、朗らかな笑顔や清らかな水の流れがあって、その深さには自然がもたらすさまざまに対する敬意と近藤さんが刻んできた人生がある。最善を尽くすことはエンジニアもワインメーカーも変わらない。そして、その2つには大きく違う面白さとやりがいがある。いや、ひょっとすると方法こそ違うけれど、最善の努力をしたあとは「なるようになる」ことは変わらないのかもしれない。近藤さんがエンジニアからワイン造りにその道を変えたのも、「なるようになる」という自然な道だったのだろう。

(取材・文=岩瀬大二)

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